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創作で探った無意識の世界 C・G・ユングの妻エンマ初の作品展

チューリヒ、キャバレー・ヴォルテールの「昼と夜」展。写真はレベッカ・アクロイド作「The World as I feel it(連作)」(2025年)
チューリヒ、キャバレー・ヴォルテールの「昼と夜」展。写真はレベッカ・アクロイド作「The World as I feel it(連作)」(2025年) Cabaret Voltaire

ダダイズム誕生の場として知られるチューリヒのキャバレー・ヴォルテールが、スイス人精神分析医カール・グスタフ・ユングの妻エンマ・ユングの作品展を企画した。自らも精神分析家で芸術家でありながら、著名な夫の影に埋もれることに葛藤を抱いていたエンマ・ユング。それから100年あまりが過ぎ、ようやく本人の業績に光が当たる。

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今年はスイスの精神分析医カール・グスタフ・ユングの生誕150年に当たる。ジークムント・フロイトから長らく後継者と目されていたユングだったが、1913年に2人は決裂した。直接のきっかけは、ユングが、フロイト心理学の性への固執を批判したことだった。

だが、精神分析学上の対立を抜きにしても衝突は不可避だったろう。反ユダヤ主義的考えを持っていたユングは、後に国家社会主義にもすり寄った。フロイト流精神分析に「ユダヤ的」というレッテルを貼り、その代わりに自分がドイツ語圏全体で地位を確立するつもりだった。

ユングは、既に1918年の論文「Über das Unbewusste(仮訳:無意識について)」の中で、「ユダヤ人は」自然からの乖離がはなはだしく根無し草であり「大地と接するもの」を一切持たない、と書いている。

さらに、こうした内なる自然からの懸念すべき離反は他にもみられるとし、それらは「まやかしのグロテスクな形、例えばタンゴ熱や未来派、ダダイズム、その他あらゆる気ちがいじみて悪趣味なものとして」舞い戻ってくると断じた。

今回エンマ・ユングの作品を紹介するのは、そのダダイズム発祥の地であるチューリヒのキャバレー・ヴォルテールだ。同館ディレクターで本展のキュレーターを務めるサロメ・ホール氏は「ユングの妻のエンマ自身も精神分析家として夫と同じような仕事をしていたと知り、愕然としました。全然知らなかったのです」と振り返る。

同氏は、世界観の点でエンマと夫は一括りにできないという。エンマ・ユングに関しては、反ユダヤ主義的な発言や考えは一切伝わっていない。

エンマ・ユング「Mädchen mit blauem Kleid」(制作年不詳)
エンマ・ユング「Mädchen mit blauem Kleid」(制作年不詳) © 2007 Stiftung der Werke von C.G. Jung, Zürich

キャバレー・ヴォルテールのユング

前述の通りユングは前衛芸術を一蹴したが、1918年の時点ではエンマとユング、そしてダダイズムの間にはゆるいつながりがあった。例えばスイス人ダダイストのゾフィー・トイバー・アルプは、ユングが所蔵するホピ族の像2体からインスピレーションを受けている。キャバレー・ヴォルテールの展示は、エンマ・ユングの絵画やドローイングを中心に、ダダイズムとの接点を探る。

「ユングの交友関係については愛人たちも含め多くが分かっているのに、妻のことはほとんど知られていません」

本展は、初公開されるエンマの作品に英国人現代アート作家レベッカ・アクロイド氏の作品を組み合わせた。会場で強い存在感を放つ蜜蝋(みつろう)製の彫刻群は、一見すると目隠しされた盲目の予言者とみまごう。しかし、よく見ればそれらはもっと日常的な姿で、目を覆っているのはゴーグルだ。

無意識下へと潜る人を表現しているのだろう。ダイバーたちの背中は後ろから見ると空洞で、中にはおがくずやヤギの頭蓋骨が隠されている。深い湖さながらに人の内面に沈む夢や幻を創作のインスピレーションとするアクロイド氏は、本展への準備としてユング派の夢セラピーも始めた。絵の制作に当たっても、エンマ・ユングの作品と呼応するよう小さなサイズを選んだ。

ホール氏によると、アート界では近年、治癒のプロセスやスピリチュアルな探究の一環としてアートとの境界線上で独自のイメージ世界を作りあげた女性たちへの関心が高まっている。その例として同氏は、ヒーラーを名乗ったスイス人エンマ・クンツ外部リンクや、ユングと親交がありティチーノ州で活動していたオランダ人神秘主義者オルガ・フレーべ・カプテイン外部リンクを挙げる。

「自己」を探る

エンマ・ユングが自分の見た夢を小サイズの絵として描き始めたのは、1910年のことだ。ホール氏は「これらの作品は非常にプライベートな性質のもので、公開するつもりはなかったと思われます」と話す。夫のユングは後に、エンマが用いた技法を「能動的想像法」と定義した。それによると、人は自分が見た夢や幻想を、創作活動などを通じ能動的に追求することで、自分の無意識と能動的な対話を始める。それは心の問題に積極的に取り組むことでもある。

こうしたアプローチに則ってエンマが描いた絵の1つが、迷路に入り込んだトカゲの絵だ。「トカゲは生存能力と適応能力のシンボルと解釈できます。全ての作品は個性化を軸としています。個性化とは、自己実現の過程において、無意識を意識に統合しようとする試みです。それは特にエンマにとって、有名な配偶者を持つ知的な女性として自分自身の道を見つけるという意味がありました」

エンマ・ユング「Salamander und Kreuz」(制作年不詳)
エンマ・ユング「Salamander und Kreuz」(制作年不詳) Cabaret Voltaire

エンマ・ユングは1882年、エンマ・マリア・ラウシェンバッハとしてスイス北東部シャフハウゼンで生まれた。父親は米国人時計技師が設立した時計メーカー、インターナショナル・ウォッチ・カンパニー(IWC)を買収した実業家だった。同社には後に夫ユングも共同経営者として名を連ねた。裕福な企業家家庭の娘として教育を受けたエンマは、文学や哲学、心理学に親しんだ。だが、大学への進学は許されなかった。

エンマは、結婚前から既にユングのために調査や翻訳を手掛けていた。話せる外国語はユングよりもはるかに多かった。1903年に結婚するとチューリヒのブルクヘルツリ精神病院の共同研究診療所で働き始め、夫の仕事を手伝った。1911年には精神分析会議出席者の集合写真に連なっており、エンマが一人前の分析家として認められていたことがうかがえる。

ワイマール会議(1911年)。セレモニーの中心にいるエンマ・ユング(1列目右から5人目)
ワイマール会議(1911年)。セレモニーの中心にいるエンマ・ユング(1列目右から5人目) Cabaret Voltaire

1916年、エンマはフロイト派から分裂して設立された「分析心理学協会」の初代女性会長に就任する。だが、エンマ自身の仕事は、数件の講演を除けばあまり人目に触れることがなかった。エンマは1955年に他界した。主な業績であるシンボルとしての聖杯に関する研究は、死後の発表となった。

今年初め、プリンストン大学出版からエンマ・ユングの詩や戯曲、絵画を収録した英語の書籍外部リンクが刊行された。その内容からは、エンマが常々自らの絵を、個人的な心理状態の発露と捉えるよりもむしろ宗教と芸術、そして文学が形成する神話の文脈に落とし込んで見ていたことがうかがえる。

その代表例が「Korallenbaum(タマサンゴ)」と題された作品で、ここでエンマは見た夢を能動的想像法を用いて消化している。本人のメモによると、夢の中でエンマは深い湖の底で光輝くタマサンゴを見つけ、ある声に導かれるままにその木から花を1つ摘み取った。

湖の主でタマサンゴを守っていた魚人は、それを見るとエンマを叱って申し開きをするよう迫る。メモによるとこの夢のポイントは、エンマ自身について何を述べているかではなく、人間に文字をもたらしたとされるバビロニア神話の半魚人オアンネスのような神話のキャラクターとの関連だ。

展示の一部。(左から)エンマ・ユング「Schutzmantelmadonna」(制作年不詳)、「Kandelaber」(1917年)、「Korallenbaum」(制作年不詳)
展示の一部。(左から)エンマ・ユング「Schutzmantelmadonna」(制作年不詳)、「Kandelaber」(1917年)、「Korallenbaum」(制作年不詳) Photo: Cedric Mussano. Courtesy: Familienarchiv Jung, © 2007 Stiftung der Werke von C.G. Jung, Zürich.

何枚かの絵には破壊と変革の影響が明らかだ。第一次世界大戦のモチーフも散見される。とりわけチューリヒにはダダ周辺のアーティストはじめ様々な亡命者のグループが世界の破滅的状況を変革に転じるべく活動していた時期があり、その世相がエンマの作品にも反映されている。

ホール氏は、ダダイズムとの関連性について次のように説明する。「ユング夫妻は、絶望と不安に創造性で立ち向かい、心の中のものを外に引き出すための戦略探しに取り組んでいました。個々の人間は理性によってのみ動くものではないという事実と向き合い、個々の中で黙殺され放置された部分が政治的悲劇を生まないためにはどうするかを問うたのです。このように創造性を治療法として捉えるという戦略は、ダダとの重要な共通点だといえます」

エンマ・ユングは早くも1911年、当時自分を支えてくれていたフロイトに次のような手紙を書いている。「時おり、どうしたらカールのかたわらで自分が真価を発揮できるのかという葛藤に苦しみます。自分には友人などおらず、私たちと付き合いのある人たちも実際はカールだけが目当てだと感じるのです。そうでない人も少しはいますが、自分にとっては退屈でさっぱり興味の持てない人ばかりです。女たちはもちろんみんな彼に恋していますし、男たちからはどうせ彼らの師あるいは友人の妻だとして、即座に距離を置かれるのです」

その後エンマ自身の業績に光が当たるまで、100年以上の歳月を要することになる。
 
編集:Benjamin von Wyl、独語からの翻訳:フュレマン直美校正:宇田薫

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